1979年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第31回大会となる。
シーズン概要
500ccクラスを大きく様変わりさせたアメリカ人、ケニー・ロバーツは、そのロバーツを倒すべくコーナリング性能を高めてきたスズキのマシンをものともせずに、2年連続でタイトルを奪い取った。また、アメリカンライダーの隆盛のきっかけになる出来事としてランディ・マモラのデビューも印象的であった。
ディフェンディングチャンピオンのロバーツはシーズン前のテストで大怪我を負って開幕戦を欠場し、タイトル防衛が危ぶまれたが、第2戦には早くも復帰して勝利を飾り周囲を驚かせた。一方で彼のライバル達は不運に泣かされ続けていた。オーストリアGPでは予選でビル・ハートッグが腕を怪我し、ジョニー・チェコットは膝に深刻な負傷を負ってしまう。バリー・シーンはマシン・トラブルに悩まされ続けた。
イギリスGPでは、ロバーツがシーンに100分の3秒差で競り勝つという、近年稀に見るデッドヒートが繰り広げられた。また、この年はホンダが楕円ピストンの4ストロークマシンNR500を擁して500ccクラスに復帰した年としても記憶される。
ベルギーGPでは、コースの安全性の問題に端を発し、FIMのレース運営に対する不満からトップライダーたちがレースをボイコットするという事態にまで発展した。トップライダーたちはこの後も団結し、シーズン終盤近くにはグランプリとは別の選手権である「ワールド・シリーズ」を立ち上げる構想を発表した。結局このワールド・シリーズ構想が実現することはなかったが、彼らのこの行動はFIMを動かし、レース運営におけるライダーの発言力を増すことに成功した。FIMは翌年以降、ライダーへの賞金を増加することを発表したのである。これらの出来事は、グランプリがよりプロフェッショナルなスポーツとして変革していくきっかけとなった。
カワサキのコーク・バリントンは、前年に引き続いて350ccと250ccの両クラスでタイトルを獲得した。
125ccクラスのアンヘル・ニエトはミナレッリのマシンで通算9度目のチャンピオンに輝いた。
50ccクラスでは、エウジーニョ・ラッツァリーニが出走した5レース全てに勝利してタイトルを獲得した。
グランプリ
最終成績
500ccクラスランキング
350ccクラスランキング
250ccクラスランキング
125ccクラスランキング
50ccクラスランキング
順位 | ライダー | 車番 | 国籍 | マシン | ポイント | 勝利数 |
1 | エウジーニョ・ラッツァリーニ | 2 | イタリア | クライドラー | 75 | 5 |
2 | ロルフ・ブラッター | 5 | スイス | クライドラー | 62 | 0 |
3 | パトリック・プリッソン | 3 | フランス | ABF | 32 | 0 |
4 | ゲルハルト・ワイベル | | 西ドイツ | クライドラー | 31 | 1 |
5 | Peter Looijensteijn | 8 | オランダ | クライドラー | 30 | 0 |
6 | ハーゲン・クライン | 17 | 西ドイツ | クライドラー | 26 | 0 |
7 | ヘンク・バン・ケッセル | 12 | オランダ | クライドラー | 23 | 1 |
8 | Jacques Hutteau | | フランス | クライドラー | 27 | 0 |
9 | インゴ・エメリッヒ | | 西ドイツ | クライドラー | 8 | 0 |
10 | ステファン・ドルフリンガー | | スイス | クライドラー | 6 | 0 |
脚注
[脚注の使い方]
- ^ コースの安全性の問題により、トップライダーはベルギーGPをボイコットした。
外部リンク