山岡順太郎

山岡順太郎
銅像

山岡 順太郎(やまおか じゅんたろう、慶応2年9月18日(1866年10月26日) - 昭和3年(1928年11月26日)は、日本実業家教育者大阪商工会議所第8代会頭(1917年 - 1921年)。関西大学第11代学長1922年 - 1925年)。「関大中興の祖」[1]である。

経歴

山岡美章の子息として、加賀国金沢(現・石川県金沢市)に生まれる[2]。最初医者を志し金沢医学校(現在の金沢大学)に進学するも、中退して陸軍士官になるために上京する。しかし軍人になるのも叶わず、1885年(明治18年)に茨城県吏員となる。

1892年(明治25年)に同郷の先輩である中橋徳五郎を頼って逓信省入り。主計課法規係長を歴任する。

1898年中橋徳五郎が官職を辞して大阪商船社長に就任すると、山岡順太郎はこれを追って大阪商船に入社し、中橋を補佐する。瀬戸内海航路を強化して別府温泉の発展をもたらした。

1914年、山岡順太郎は大阪商船の社長に就任する。その後、山岡は大阪商船を足場に大阪鉄工所宇治川電気大阪曹達などの経営にも関わり、日本電力大阪ビルヂングの設立を主導した。

1917年、山岡順太郎は大阪商工会議所の会頭に選ばれた。

また内務省の少壮官僚グループによるロンドン郊外のレッチワースを範とした田園都市構想に乗り、1920年(大正9年)大阪住宅経営を設立した。また、千里山住宅地の開発をスタートし、千里山一帯の住宅地域を整備・開発した。

さらに。関西大学の総理事に就任して、大学令による関西大学の昇格、千里山学舎の建設などを遂行した。

1921年(大正10年)に美章土地株式会社を設立し、住宅地「美章園」を建設、美章園駅の建設費を寄付した[3]

長男の山岡倭は関西大学北陽高等学校の創立者である[4]

家族

  • 父 - 山岡 美章(彌五郎)
  • 長男 - 山岡 倭

出典・注釈

  • 熊博毅「「学の実化」 の時代―山岡順太郎・倭父子展―をふりかえって」(『関西大学年史紀要』第19号、2003年

脚注

  1. ^ 関西大学百年史編纂委員会『関西大学百年史 人物編』1986年、248頁
  2. ^ 和田康由・ 寺内信「山岡順太郎と大阪住宅経営株式会社 」『日本建築学会計画系論文集』61巻486号、 1996年 p. 167-176
  3. ^ 和田康由・寺内信「山岡順太郎と住宅経営論」『日本建築学会計画系論文集』61巻488号、1996年 p.187-194
  4. ^ 熊(2003) p40

関連項目

外部リンク

  • 大阪商工会議所歴代会頭について
  • 山岡順太郎|関西大学 年史編纂室
  • 関西大学と日本の近代化 ―千里山キャンパスの誕生― 関西大学の今


先代
範多龍太郎
大阪鉄工所社長/会長
1914年 - 1926年
次代
津村秀松
関西大学学長(学長事務取扱・学長:1922年 - 1925年)
関西法律学校長
(旧制専門学校)関西大学長
関西大学長
  • 事務取扱/学長 山岡順太郎 1922-1923/1923-1925
  • 松本烝治 1925-1928
  • 仁保亀松 1928-1937
  • 神戸正雄 1937-1944
  • 事務取扱 竹田省 1944-1946
  • 正井敬次 1946-1947
  • 岩崎卯一 1947-1950
  • 岡野留次郎 1950-1953
  • 事務代行 木村健助 1953
  • 岩崎卯一 1953-1958
  • 岡野留次郎 1958-1959
  • 矢口孝次郎 1959-1962
  • 中谷敬壽 1962-1965
  • 森川太郎 1965-1967
  • 中谷敬壽 1967-1969
  • 事務代行 明石三郎 1969
  • 代行/学長 廣瀬捨三 1969-1970/1970-1973
  • 明石三郎 1973-1976
  • 中義勝 1976-1979
  • 大西昭男 1979-1994
  • 石川啓 1994-2000
  • 永田眞三郎 2000-2003
  • 河田悌一 2003-2009
  • 楠見晴重 2009-2016
  • 芝井敬司 2016-2020
  • 前田裕 2020-
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